御祭神

当神社では、
福井藩祖である松平秀康公、
江戸幕府初代将軍である
徳川家康公、
福井藩16代藩主である
松平慶永公(春嶽公)を
主祭神としてお祀りしております。

主祭神

福井藩祖


松平秀康公(結城秀康公)

越前福井藩初代藩主。正三位、中納言。徳川家康公の御二男。 生母は永見吉英の娘於万の方。御幼名は於義丸。 天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いの講和の際、豊臣秀吉の御養子となって羽柴秀康と名乗られ、河内(大阪府)に一万石の領地を与えられた。 天正18年(1590)、下総(茨城県)の結城晴朝の養嗣子となられ10万1千石の領地を統括される。 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは宇都宮に在陣し、石田方の上杉景勝、佐竹義宣の進陣を防ぎ、その功によって越前68万石へ加増転封となり、 北庄城(福井城)の修築、城下の町割や領内の要地に腹心を配置するなど越前福井藩(現在の福井市)の基礎を固められた。 秀康公の武将としての器量は一流で武勇抜群、剛毅で体躯も良かったが、礼節正しく謙譲深き藩主であられたという逸話が残っている。

江戸幕府初代将軍


徳川家康公(東照大権現)

秀康公の御父君で、江戸幕府初代将軍(在職1603〜05)。 三河(愛知県東部)の松平広忠家の嫡男としてお生まれになる。御幼名は竹千代。 桶狭間の戦いの後、今川氏から独立され、織田信長と同盟して駿河・遠江(静岡県)・三河3ケ国に所領を拡大された。本能寺の変の後は、いち早く甲斐(山梨県)・信濃(長野県)を手に入れ、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と戦われ一歩も譲らず和睦。 天正18年(1590)、関東にお移りになり250万石の大大名となられ、秀吉の死後は関ヶ原の戦いに勝利され天下の実権を握り、将軍となられ、江戸に幕府を開かれる。将軍職を引かれてからも大御所として実権を離さず、徳川氏政権265年間の基礎を固められた。 家康公は、その生涯の生き方・考えをまとめたものを残されており、現在においても素晴らしい人生訓として語り継がれている。

福井藩十六代藩主

松平慶永公(春嶽公)

幕末期の越前国福井藩主、幕府の政事総裁。御幼名は錦之丞。 元服のときにつけた雅号春嶽が通称となられる。田安家徳川斉匡の御八男で、天保9年(1838)、11歳のとき、越前家をお継ぎになり、第16代藩主となられた。 以後20年間のうちに、橋本左内、由利公正、中根雪江(靭負)、鈴木主税ら身分を問わず才ある人物を登用し、藩政の刷新に努め、西洋砲術や銃隊訓練など軍事力の強化、藩校明道館の設立と併設の洋書習学所、種痘の導入など洋学の採用も推進された。幕末、明治維新の名君と仰がれる。 将軍継嗣問題においては、一橋慶喜を擁立。井伊大老と対立し、安政の大獄において隠居させられる。 文久2年(1862)、勅旨により政事総裁職になられ、幕政改革にあたられた明治維新後は、政府の議定・大蔵卿などの要職を担われる。

相殿御祭神

  • 土屋左馬助正明命(殉死、藩祖の家臣で武将)
  • 永見右衛門長次命(殉死、藩祖の家臣で武将)
  • 吉田修理義寛命(福井城築造総督の武将)